汗かき教師修行 10年 原稿のメモ 忍者ブログ
〜本物は続く 続けると本物になる〜
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さて原稿を書かなくちゃいけないんだけど,僕以外すごい執筆陣やねんな〜 (^_^;気後れしちゃう。まあ,つまりは僕が無茶しても,雑誌的には成り立つってことでもあるよね。というわけで,えいや!と書き上げてしまおう。で,明日サークルで見てもらえるようにしないと。
posted at 17:45:46

「教える」ことと「学ぶ」こと。二つのことをバランスよく授業の中で実現するにはどうするか。一斉授業とワークショップ型の授業や対話型の授業,学び合いの授業との対比が最近の傾向。教師主体か学習者主体かということが焦点になっている様子。
posted at 19:53:18

東井義雄先生は,「授業の探求」の中で,教師が一方的にしゃべる授業を「キカンジュウの授業」として批判している。一方で,子どもがただ楽しそうに活動だけをしている授業を「石たたきの授業」としてこれもまた批判している。
posted at 19:57:10

東井先生は,「キカンジュウの授業」を「古い授業」と言っている。ちなみにこの本が出版されたのが1961年だ。今から50年も前に,「古い授業」とされたものが今も残っている。
posted at 19:59:15

しかし,「石たたきの授業」という「古い」一斉授業に対して出てきた,子ども中心の活動的な授業に対しても,東井先生は危惧を持っていた。「教科の論理」が抜けているのではないかということだ。ただ,子どもが楽しければそれでいいという訳ではないのだ。
posted at 20:00:31

東井義雄先生は,「教科の論理」という言葉を用いて,学校が教えるべき教科の内容が軽視されているような授業は授業ではないと言っている。しかし「教科の論理」を一方的に教える授業も授業ではないと言っている。一方的なキカンジュウの授業には,子どもの実態「生活の論理」が欠けている。
posted at 20:02:52

「生活の論理」とは,「村を育てる学力」で東井先生が提唱した考え方だ。ただ 「教科の論理」をもとに子どもに学力をつけるだけでは,村にとっては役立たない,村を捨てる学力になってしまう。そうではなく,村にも返ってくる,「村を育てる学力」をつけるには,子どもの実態を把握する必要がある。
posted at 20:06:11

「教科の論理」を無視した授業では,学力はつかない。「生活の論理」を無視した授業では学力は生きない。教師の「教科の論理」と子どもの素朴な「生活の論理」の対決。それを「授業」と東井先生は呼んだ。
posted at 20:09:00

東井先生の本によく出てくる授業記録の一つに,2位数×2位数のかけ算の筆算の授業がある。東井先生は,筆算の桁をわざとずらさずに計算する。そして,何が間違っているのだと子どもたちに「発問」する。子どもたちはあれこれと一生懸命説明する。しかし,東井先生はすっとぼけて,ちっとも納得しない
posted at 20:11:38

子どもたちは,そう決まっているだの,そう習っただのと説明するが,実はほとんど説明になっていないことに気がつく。東井先生のゆさぶりに負けてしまい,「まいった」といい,東井先生の説明をじっくりと聞くようになる。
posted at 20:13:13

素朴に「筆算などわかっている」と思っている子どもたちに対して,わざと「発問」して,子どもの不備・不足に気づかせる。気づかせた上で,「教科の論理」を「まいった」子どもたちに「説明」する。子どもの「生活の論理」を「発問」によってあぶりだし,ゆさぶりながら教えるべきことを教える。
posted at 20:15:42

「発問」によって,子どもの実態をとらえ,子どもにわかっていないことを気づかせ,どうすればわかるのか動機づけをして,「まいった。教えてください」と言わせる。その後で,「説明」する。だから,一方的なキカンジュウの授業にはならない。
posted at 20:17:18

この,子どもの実態を浮き彫りにし,不備不足に気づかせ,学習への動機づけをして,双方向の対話をしながら,教師という壁を越えさせる。それが「発問」の役割である。学習者として未熟な子どもを,こうやって少しずつ起こしていく。
posted at 20:19:19

学習者を起こしながら,自ら「問い」を見つけ,自らしらべ,自らまとめることができる子どもを育てることが,「村を育てる学力」であると東井義雄は呼んだのだ。ちなみに,東井先生は,今で言う「自主学習」も推奨した。「一人しらべ」や「生活の算数」として,ノートにまとめさせていた。
posted at 20:21:25

学習帳=ノートの役割についてまとめたのも東井先生である。すごい!やはりレジェンド(cf 俵原先生)
posted at 20:22:27

と,実はすでに50年前に,今議論されていることについて非常に建設的な提案がされている。「一人学習=自学」を推奨し,「発問」によってゆさぶり,子ども同士での「話し合い・磨き合い」で考えを深め,「学力」をつける。
posted at 20:25:16

東井義雄のこの提案の核になる部分は,「学力」という点にあると思う。子どもがただ活動しても,「学力」につながらなければ授業ではない。でも,ただキカンジュウのように説明しても,「主体的に」活用できる「学力」でなければ,それは「村を捨てる学力」になるだけなのだ。
posted at 20:29:34

目に見える学力=教科の論理からくる学力と,目に見えない学力=生活の論理を補完する学力=主体的な学力。この双方をつける授業が授業。そのために,「発問」と「一人調べ」によって,学習者を育てていく。今は素朴な生活の論理に生きる子どもを,主体的な学習者として育てるのが授業なのだ。
posted at 20:32:01

だから「発問」中心の授業は,小学校・中学校までに多い。高校・大学になるにつれて,「発問」中心の授業から,「説明」中心の講義へと移り変わっていく。義務教育が終わった頃には,そこそこの学習者として育っているということが前提になっている・・・はず。
posted at 20:33:40

小学校の6年間でも,低学年は発問中心,中学年は指示中心,高学年は説明中心と徐々に段階を経ていくのが本来なのではないか。もっといえば,一学期は発問中心,二学期は指示中心,三学期は説明中心と一年の中にもそういう流れがあってよい。
posted at 20:35:25

一日の中にもそういう流れがあっていいし,一時間の授業もそうあるべきだと思う。僕の師匠である堰八先生は,そういった段階を,リード・サポート・バックアップと呼んでいる。
posted at 20:36:33

リードは教師主導。サポートで,少しずつ子どもに移行する。バックアップの頃には,子どもが中心に学習できるようにする。僕は,その流れに,発問,指示,説明を当てはめてみたい。
posted at 20:37:58

東井先生の話を入れたら,ぜったい4頁でまとまらないな (^_^;
posted at 20:39:59

と今書いたようなことは,すべて一般向きではないということで,この本からは割愛されています。でも,他の基本的なことが,もう少しわかりやすく書いてあるので,よかったらお年玉で買ってやってください (^_^)
posted at 20:42:54

リード・サポート・バックアップという考え方は,いろんなことに通じている。守破離もそうだ。
posted at 20:43:45

ちっとも新しくないというところが新しい(笑)

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